伴林光平が生まれた尊光寺は雑賀孫一の創建寺?
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近鉄南大阪線の土師ノ里駅を降りて北へ一筋だけ進む。
左折して允恭天皇陵古墳を背にして長尾街道を西へ道明寺小学校を左に見ながら市野山の坂道を下って行く。
道の傾斜がほぼ無くなったあたりで見かける。
この案内を目印に右折してすぐに尊光寺がある。場所は藤井寺市林4丁目。
門は閉まっていて中には入れなかった。
お寺の前にある生誕の碑と歌碑。残念ながら内容は読み取れなかった。
天保13年9月に林の里、尊光寺新堂建立の日に落慶を祝して歌を詠んでいる。
「限(ママ)なき千代のしるべの菊の香に佛の笑もひらく秋かな」
この歌かもと思うが違っていたらごめんなさい。
それ以前に伴林光平って誰?と言う人に向けて、
江戸時代末期に生きた国学者で歌人でもあった。
このお寺の住職であった鈴木雅亮の次男として生まれていて幼名は鈴木信丸。
幼い頃に両親を亡くしていて、羽曳野市、野(村)の西願寺に養子に出されています。
(この西願寺は明治維新で廃寺になって今は跡地の碑しかありません。)
国学者で歌人で文人で勤皇の志士でお寺の住職をしていた時代もあって、色々な名前を使い分けています。
天誅組に参加していて最後は処刑されるのだが、当時の尊皇思想の影響もあってか荒れた古墳を見て嘆いています。
何とか記録を残して保存活動をしようとしたのか河内国陵墓図記を製作したりもしています。
現在の文化遺産保護の視点とは違うかも知れませんがその当時に描かれた絵は江戸末期の古墳の状態を写生した貴重な資料となっています。
波乱万丈の人生を送った人でした。
尊光寺の北に位置する伴林氏神社(ともばやしのうじのじんじゃ)の前にあるお寺への道案内
気になったのは『雑賀孫一』創建寺の文字。
雑賀孫一は戦国時代から江戸初期の人です。最近はゲームやアニメでもこの名前を見かけますが、
雑賀衆は種子島に来た鉄砲の国産化に成功した一族で和歌山県の紀の川周辺にいた一族のはずだから大阪にある寺の創建に関わっていたとは思えません。
ただ、雑賀孫一で検索すると鈴木孫一が出てくるので鈴木繋がりかも知れませんが。
どうも孫一の名前自体も世襲されていたような感じですから詳しく調べようとすると迷路に嵌まってしまいそうなのでここはスルーしようと思いました。
明日は大伴家持の祖先を祀る伴林氏神社の話です。