竹原井頓宮たかはらいとんぐう跡地_青谷遺跡|訪問マッサージ・鍼灸なら大阪府松原市の高橋鍼灸院にご相談ください。

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竹原井頓宮たかはらいとんぐう跡地_青谷遺跡

趣味ブログ-街並み 

上の写真は高井田の地名の元になった竹原井頓宮。現在は「たけはらい」と読むが、昔は「たかはらいとんぐう」と読んでいた。その跡地です。

昨日も書いていますが音の近さからこの近くの地名が高井田と言われるようになったらしいです。

現在は私有地になっているので勝手に入れませんし入っても遺跡は埋め戻されているので何も分からないでしょう。

国道25号線から昨日の吊り橋を渡るのではなく、上流にある国分寺大橋を渡って北に向かいます。

今はまだ青谷運動場の立て看板が建っているのでこの看板の手前で左折する道に入ります。

この道を西に進むと最初の写真の門が右に見えてそのまま進むと右に塀が続きます。

塀に沿って奥まで行って振り返った写真です。

地図上だと塀の内側が青谷遺跡になっているはずです。

つまりここが竹原井頓宮跡地です。

先程の道の左にある竹林。この写真は西を向いて撮影しています。

そしてこの奥が放置された感じの青谷運動場になります。

2022年2月現在の運動場ははこんな感じです。

この運動場の向こう側に吊り橋がかかっています。

ここを尋ねた時は何故急に廃墟のようになったのか分からなかったのですごく不思議でした。

そこで家に帰ってから検索したところ出て来たのが、平成29年台風21号。

我が家も屋根瓦が3枚飛びました。

全国ニュースでは関空連絡橋に船が衝突して長い間連絡橋が使えなくなりました。

他にも大阪府下のあちらこちらで被害が出ました。

ここもそれが原因かと。

吊り橋を渡って階段を降りる。

つまり土地が低い。

大雨が降った時に大和川はこの先でS字状になっているから山側で降った雨が上手く川に排水できなければこの低くなっている所に水が溜まって浸水する。

雨と風でネット等が壊れる。壊れた部分だけ修繕したとしても浸水対策も同時にしなければ意味がない。

抜本的解決を望むなら高額の費用がかかる。

中途半端な事は出来ないから取りあえず運動広場は廃止。

今後どうするのか計画策定から始める。

結果、今は整備もされずに荒れた状態になってしまってこのような廃墟のようになってしまったと。

しかし、そのうちに新たな工事も始まるでしょう。

そうするとこの吊り橋付近もやがて工事が入って当分の間、使えませんとなるのでしょうね。

 

と言う事で現在の話はちょっと横に置いて過去の話です。

平城宮が首都で難波宮が副都として機能していた頃の話です。

当時は平城宮を南に出て法隆寺を経由して龍田古道から大和川へ、この地で泊まった後、難波宮を目指すルートがあったらしいです。

竹原井頓宮は行宮(あんぐう)、または離宮とも呼ばれていた時期もあるようですが、頓宮や行宮は天皇が行幸する際に途中で休む仮宮を言います。

これが離宮になると常設の宮になります。

実は続日本紀によると「養老元年(717年)2月、元正天皇が和泉宮から平城宮へ還る途中に、竹原井頓宮に宿泊した」と記されているそうです。

そして天平6年(734年)3月には聖武天皇が難波宮に行幸し、その帰りに竹原井離宮で2泊している記述があるそうです。

しかし、宝亀2年(771年)に光仁天皇が竹原井行宮へ行幸した時には常設の離宮ではなく行宮となっていたようです。

そして平城宮から長岡京、平安京に政権が移動した時点でこの地を利用される事も無くなり忘れられてしまった模様です。

長岡京の発掘調査で竹原井頓宮と同じ瓦が出土しているらしいです。

難波宮は解体されて長岡京の建設でリユースされているのが分かっているのでここの建築物も長岡で再利用されたと考えられます。

ここでふと疑問に思ったのが長岡京に移転した後でここが利用されなくなって廃墟になるのは分かります。

ですが聖武天皇の記述が734年で光仁天皇の記述が771年です。

だとするとその間は、たかだか36年ほどです。最初は仮宮であったとしても一度常設の宮にしているはずなのに三十数年でそんなに簡単にボロ屋になるのか?と。

本当かどうか分かりませんが、ただ単に常時使わなくなっただけと言うよりも途中で構造そのものが貧弱になっているような話も見かけたので、その記事を見た時に不思議だなあと思ったのです。

でも今回、現地に立ってみて、あゝそうか、日本の気候だと風水害で一挙に壊れる事も有り得るのだと納得しました。

結局のところ跡地は昭和59年(1984年)に発掘調査がされるまでここは青谷廃寺跡と考えられていて、竹原井頓宮は高井田横穴古墳群の傍にあると考えられていました。

しかし調査によって寺院としての構造を持っていないのが分かり、以後ここは青谷遺跡となりました。

今後、柏原市と市民がどのようにこの地域の開発と保存を考えられるのか分かりませんが古い物もそれなりに残して頂ければありがたいなあと思います。

最後に竹原井頓宮に関連した話です。

万葉集からです。

上宮聖徳皇子(かみつ宮、聖徳のみこ)、聖徳太子が詠んだとされる歌が、巻3、415番に収録されています。

『家(いへ)にあれば 妹が手まかむ
草枕 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ』

家に在れば妻の手枕であっただろうに草を枕に倒れ臥すこの旅人の哀れなことよ。

この歌には但し書きが付いています。

「上宮聖徳皇子、竹原井(たかはらのゐ)に出遊(い)でましし時に、龍田山の死人を見悲傷して作らす歌一首<小墾田宮に天の下治めたまひし天皇の代。小墾田宮に天の下治めたまひしは豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめの)天皇なり。諱(いみな)は額田、諡(おくりな)は推古>」

ちょっと長いのですが、現在の奈良県桜井市上之宮に聖徳太子が住んでいた頃の話です。

明日香村の小墾田宮で推古天皇の政治が行われていた時、太子が竹原井に出かけたおりに龍田山で死亡している人を見かけて嘆き悲しんで作られた一首、となります。

ただ、この話は元になる話があります。

8世紀中頃の人にとって竹原井頓宮の存在は常識だったのでしょう。

しかし聖徳太子は7世紀初め、万葉集の時代からだと約150年前に生きた人です。

あくまでも竹原井頓宮は平城宮時代の建物で明日香宮時代にはおそらく無かったと思われます。

 実は日本書紀の推古天皇21年。西暦613年の12月のエピソードに『片岡山飢人説話』があります。

「十二月の庚午(かうご)の朔に、皇太子、片岡に遊行(い)でます。時に飢者(うゑたるひと)、道の垂(ほとり)に臥(こや)せり。仍(よ)りて姓名(うじな)を問ひたまふ。而(しか)るを言(まを)さず。皇太子、視(みそなは)して飲食(おしもの)を与へたまふ。即ち衣裳(みけし)を脱(ぬ)きて、飢者(うゑたるひと)に覆(おほ)ひて言(のたま)はく、「安らかに臥(ふ)せれ」とのたまふ。則(すなは)ち歌(うたよみ)して曰はく、」「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ」

「親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き
飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ」

聖徳太子が片岡山、現在の奈良県北葛城郡王寺町(国道25号線をそのまま東に走った先)に行った時に飯に飢えて倒れている人がいた。その旅人に向かって声をかけるが返事がない。飲食を与え、着ていた服を掛けてあげるが結局は亡くなってしまう。

そこで弔ってあげた。

そんな感じの話です。

日本書紀では場所が片岡山になっていて大阪府内には入っていませんし、たびとも旅人ではなく田人(農民?)になっている資料もあります。

しかし、万葉時代の人にとっては片岡山と言われるよりも竹原井と言われた方が場所のイメージがし易かったのでしょう。

現代人が千葉のディズニーランドと言われるよりも東京ディズニーランドと言われた方が分かり易いように。

この頃はすごく知名度があったと思われます。

それが今は……..。

この青谷地区の浸水対策を機会にもう少し何とか出来ないものでしょうか?

柏原市の今後に期待します。

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